『ディガー』の批評性と限界
物語の核心部に触れる部分があります(というかそれしかしてない)。
アレハンドロ・G・イニャリトゥ(映画監督)、トム・クルーズ主演の『ディガー』をIMAXで観てきた。いろいろと仕掛けが多い一方で振り返って分解していくとシンプルな構図が多層的に積み重ねられてできている「わかりやすい」が「わかりにくい」作品でもある。
WARNING !!! / POINT OF NO RETURN
以下、作品の核心部に触れるので未見の人はここで引き返して下さい。
クリストファー・ノーラン監督の手法との相違
最初に目がつくのは本作の劇中劇が舞台劇でありつつ、ミニチュア撮影をプロジェクションマッピング的な手法で成り立たせるという作られ方が徐々に明らかになる点にある。実写・VFXやCGIを補助的にしか用いないノーラン監督的な舞台劇構築をやっている。
その上で劇中に起きる破局的な災害が欧州を襲うさまを見つめる大統領とディガーの会議室シーンは『オッペンハイマー』の広島・長崎の惨状を実地に見て戻ったサーバー博士ら(サーバーら数名はテニアン島に派遣されていて日本の降伏後被爆地に入っている)の帰還報告会のシーン(オッペンハイマーらが被爆地や被爆者の惨状について聞いている短いシーンだが彼らの表情しか映さない)のオマージュというより批判的な引用としか思えないシーンを長々とやっている。
『オッペンハイマー』ではこのシーンは実際に被爆地や被爆者の写真など投影してそれを俳優たちが見て演技したものを撮影していて、まだ当時の体験者やその親族、子孫がいる人たちの尊厳に配慮して安易に被爆者を作って見せるような真似はしていないが、原爆の悲惨さを示すために出せという土足で人の感情を無視した言動をする人たちは多数いた。
ノーラン監督は『オデュッセイア』(2026)において英雄譚としてのトロイア戦争を描いておいてから、実際のトロイア戦争、木馬で城壁内へ侵入して守備兵を殺し、城門を開いて軍勢を引き込んで組織的抵抗能力を失い一方的な殺戮劇になっていく様相をこれでもかと見せた上でオデュッセウスがアテナに見えた女性の首がはねられる瞬間アテナ石像の首が割られて落ちるという描写となって神殺しの禁忌を犯してしまったオデュッセウスが描かれていて『オッペンハイマー』での被爆地・被爆者を描かなかったことへのアンサーが示されていた。
エンターテイメントで殺戮シーンを描く必要性・必然性とはどういうものか。『オデュッセイア』(2026)の場合は当時の当事者や親族・子孫が1〜3世代程度の範囲でいないはるか過去の神話とも言える時期の出来事を描いている。その上でオデュッセイアの英雄譚とそれを否定するためのトロイア戦争での殺戮行為が提示されている。これぐらい配慮してようやく描けるものであるという認識があまりにも乏しい観客や制作者は多い。
『ディガー』での大統領らの様子を描くシーンは無用に長く、過剰に悪趣味で批判の域を超えていて、個人的には好きになれなかった。
アメリカの映画産業に対する中指
パラマウントの映画ロゴで出てくる山にも見える壁紙の部屋。どこからか漏水が落ちていてバケツが置かれていて壁からも漏れているというシーンがあってわかりやすく中指を突き立てている。本作の配給はワーナーなわけですが、こちらはそのパラマウントのオーナーでもあるエリソン家(Oracle創業者の息子がパラマウントを買収してスカイダンス傘下に収めた)が買収していてなんとも皮肉な結果になっている。
人間主義的な倫理観の限界
『ディガー』はトレイラーで見ると地球温暖化に絡んだ作品だと想像はできるわけですが、劇中のある仕掛けによって映される世界が頻繁に動く。フィクションで描かれる過去と劇中の現在時点(Present time)を行き来している。結果として人類は生き延びていることが一発でわかる構成になっていてその点で極めてわかりやすく誤解がしようがないし、この構造が途中で明らかにされた時点で人類はそれでも生き延びるという人類讃歌の構造が透けて見えてしまう弱点を持っている。起きている出来事は温暖化ガスの大放出と大氷河の流出と溶けてしまう事による海面上昇なので、港湾施設は壊滅して地球規模で海上輸送が大崩壊して石油やガスの輸送が困難化→陸上物流も打撃を受けて世界的飢餓が起きて人口が激減、港湾施設を再建できたとしてももはや工業基盤を維持できるだけの人口がないという結果しか見えず人類は詰んでいるはずだが、決して人類は滅びないらしくそこまで描いていない。キリスト教的な倫理観、人間主義的なものが破局の先にまだ未来は残っている選択をしている。
上田早夕里『華竜の宮』というSF小説やオリジナルテレビアニメ『アポカリプスホテル』、読み切り漫画Boichi『HOTEL SINCE A.D.2079』など知っていると本作の物足りなさ、徹底のしなさが痛感できると思う。いずれも傑作なので是非。
劇中における創作の意図の対立
本作はリハ終盤での氷床K爆撃作戦でまずディガー役の俳優が史実、リアリズムを主張してリハが止まる。そこで英国の女性演出家はこれはコメディでありリアリズムとかどうでもいいという意見の対立が起きる。そこで登場するのがスタッフでもキャストでもない人物で、彼はこの物語の当事者のひとりである事を明かし、ディガー役の演技の真摯さを称揚し、演出家の意図した笑いについて観客と一体になった経験からの出資・制作である事が明かされる。
「プロデューサー」は当事者としての意見を持ってディガー役の俳優の怒りをいなしており、結局演出家と「プロデューサー」の考えるこの事態を生み出した元凶を笑いものにするというフィクションとしての演劇の追及が優先された。
25周年公演の初演の最後、ディガー役のポケットにあるパーソナルデバイスの電話機能が着信音を派手に鳴らすという観客がやっても万死に値する行為が起きるが、観客はディガーの劇中の死を待ち望んでおり問題とされずに突き進む。あの熱狂は演劇の良さというよりディガーへの憎悪が巻き起こしたものであり、その一体感とは何なのか。絞首刑が見世物だった中世の出来事のような不気味さがあった。
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