休みという流れ星、見ていてくれる人たち
最近、自分の「おやすみ事情」に、少し進展があった。
なんと、少しだけ休みたいことを、上司に相談できたのである。
しかし正直、未だに休みたくない。心の中でずっと天秤にかけていたのだ。休みを調整してもらうことになる自分の不甲斐なさと、休んだ方がいいらしいという事実を。
しかし、入社時には想定していなかったしできなかったようなイレギュラーがあまりにも重なりすぎた。どれも、このイレギュラーがなければまったく違ったのに……ということばかりだ。
その末にいよいよ私は、休むという相談を上司に対して露見させてしまった。その一言を言ってしまったのだ。契約の範囲で自己管理ができなかった自分の不甲斐なさをどうしても感じてしまう。気が狂いそうだ。それに休んだところで仕事を回せる自信もないし(回すんだけども……)、何より休むことで確実によくなるという契約に判を押せるような確証もない。
しかし、「つらいらしいから、やすんだほうがいいらしいから、やすむ」を検討できたということが、私にとって大きな一歩だった。休んだ先に何があるのか、分からなくても休んでみる。見通しがわからなくても休んでみる。休んだ方がいいらしいから。
こうして実感を持たないまま休む相談ができるというのは、本当にありがたい環境だと思う。
仕事も一つ一つはとても楽しいし。ただ同時に来られるとしんどいだけで。
休みを相談してからは、とにかく早かった。特に、身近で見ていてくれた医療者や支援者の動きが早かった。私はずっと、医療者や支援者の「無理しないでね」を受け取って、それをあたたかい言葉としてそっと棚にしまっていたのだ。
それがようやく(というか突然)、「休みたい」と口にしたのである。
医療者や支援者の人たちは、私のその一言を、見逃さないでくれた。すぐに淡々と書類を揃えて、私に託してくれた。
同居人に報告したときも、同居人は嫌な顔一つしないでくれた。
こうして改めて書いて見ると、涙が出てきそうだ。みんななんてあたたかいんだろう。
この機会に、きっと何かつかみ取ろう。何もしないということや、何かするということ。何がしたいのかや、どうやって友人たちと関わっていきたいのかも。生活を見つめ直そう。
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